自分の言葉で音楽ジャンルを定義してみる

Walkmanを新調した。a30シリーズ。

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一番右、ボルドーピンクを購入。なかなか気に入っている。
気に入っているのだが、1つしっくりこない点が。
ジャンル分け
そう、入っている曲・アルバム・歌手ジャンル分け
Pop」「Rock」「R&B」「Jazz」「Classic」なんてザックリな分け方でやっても、ジャンル分けの効力はない。だからといって細分化しようものなら、ものすごく労力がかかる。定義があいまいなのだから、最終的には自分でどうにかしなければならない

いや、待てよ。それなら自分でどうにかしてみよう
で始まった今回の企画。

私の好きなアーティスト・アルバム・曲紹介しながら、世の中に溢れる音楽を私の主観でジャンル分けしていこうという、遠大な試み
当然紹介したアーティストが増えればその都度ジャンルの再編成が必要なわけで、成長していくモンスターのようになりそう。
音楽好きにはそれなりに需要がありそうな気がするので、そんなニーズにも応えられるようにゆるりとやってみようかな。

 

 

 

映画「聲の形」感想と自分の半生と、これからと。

映画「聲の形」を観てきた、なんて報告するために普段わざわざ文字にすることはないのだけれど、今日は書いてみようと思う。知り合いでも知らない人も多いので。

全般的に多少暗めだけど、どうか明るく読んでもらえれば幸いです。

僕にとって「書く」作業は魂を削るようなもんで、ものすごくエネルギーを使う。だから伝えたいとか吐き出したいとか特段思わないと文字にすることはあまりない。だから多分書き終わった後はよく眠れると思う。

 

作品について深く触れるとネタバレになるので止めるが、主人公はある期を境に独りになってしまう。今までイジメていたやつがイジメられる、みたいな展開。そこから彼が殻に閉じこもっていく様子が昔の自分を客観的に見ているようで痛かった。

僕はイジメられた、とかそういう訳ではなかったが、大学1年生の時、20歳のころ、確実に壊れた。物理的には前後で何も変わってないが、あれは“壊れた”と形容するに相応しい。それくらいインパクトがあった。

自我が形成されるのは思春期の終わりらしい。そうしてようやく形作られた自我がトンカチで一瞬にして叩き壊された。何も無くなった。というか、目の前にあるものを認識出来ても判断基準が無くなったために何も分からなくなった。

そのころよく海に放り出される(放る、というのは関西弁らしいですね汗 知らなかった…)夢を見ることがあったがまさにそんなイメージで、そういう伝え方をすると誰もが『タイタニック』みたいな展開を予想すると思うのだけれど、それとはまた違って。周りに一片の木くずも無ければ人もいない、そんな夢。

投げ出された後しばらくは凍てつく大海原に「寒い」と感じるんだけど、そのうちマヒしてきて寒さも感じなければ海と自分の体の境界線も分からなくなる。矮小化された自分がそこにいて、けど、極大化した自分も共存している。

実生活でもそんな感じで、どこまでが自分でどこからが自分か分からなくなってしまっていたので、他人にデリカシーのない行動を平気で取れたり、逆に自分が苦しいのに出来もしないことを請け負ったりと滅茶苦茶な行動ばかりしていたのが未だに思い出される。(その当時でも「迷惑かけてる」という自覚はあったものの、どうしていいか解らなくて結局それがストレスになるんですよね)

 

映画ではその後、そんな苦境に陥った彼に手が差し伸べられる。

私も幸いにして友人に恵まれていて最終的にはどん底状態から脱出できたが、現実はなかなか物語のように上手くいかない。

 

辛い状態が続くと、普通に生きてても不器用な北山が更に不器用な状態なので、心がこれ以上ダメージを受けないように閉ざしてしまって人間不信になる。それでもって失踪し、当時の彼女の家に居候していた。僕の大学や生活拠点は東京、彼女は京都。正月明けの帰省で生活費となるお年玉と東京行きの切符を持って、京都で降りて。

そう聞く限りでは、「何だよ、やることやってんじゃん」なんて特に男性陣から冷やかしが聞こえてきそうだが笑、正直彼女でもってギリギリセーフというか、彼女が通学のため朝家を出てからの時間と、寝静まっている時間だけが安穏で。行き着くとこまで行き着いている感じ。

寝静まって安穏を確保して、午前3時、することもなくただスライド式の黒の携帯をいじり、自分の情けなさとやるせなさからか、ツーとただ涙を流し、「オレ、そろそろ死ぬのかなぁ…」なんてのが1カ月続く。

正直生きている価値はなかった。

だからか未だに京都の街は好きになれない。決して京都が悪いわけじゃないが。

さすがにそんな状態で寮にいないので、親に連絡が行き、「帰っておいで」となってその生活からは抜け出せるようになる。帰った日、節分の夜、食べきれない程の量の食事が用意されていて、その中でも、小さな陶器のお椀に入ったシチューの暖かさの感覚は今でも鮮明だ。当時お世話になった彼女にもちゃんとお礼言えてないな。

そこからは実家でしばらくリハビリ。といってもぐうたらな生活が続いた。

寝れるだけ寝て。ゲームして。音楽聴いて。

そんな時に、ふと見たCSの音楽チャンネルでこの曲に出会った。

 

www.youtube.com

今では売れっ子の源くん(リスペクトを込めて、いつもの呼び方で!)だが、まだソロ活動では駆け出しの時期。上手く表現できないが、誰から見ても紛れもなく「くだらなかった」自分が肯定されている気がして、全編聴いてツーと泣いたのを覚えている。

(このシングルが3/2発売。9日後に3.11が起こり、未曽有の事態、連日続く報道にリハビリ状態in関西でリアル感のない自分に苛立ったものだ。)

源くんだけでなく、この前後で身の周りの人にも助けられた。

アカペラサークルに復帰する道筋を作るためにゴスペラーズの新しいアルバム持って来てくれた友人。サークルにはその後復帰し、今でもつるむ仲だ。

連絡ないのを心配して女人禁制の寮なのに入口まで来てくれて励ましてくれた女友達もいた。彼女は今海外でビジネスリーダーになるべく奮闘中である。クリスチャンの彼女はまさしくマリア様のようだ。

小学生の受験戦争を一緒に戦った友人の母は僕の出来事と同時に気落ちしていた母がとてもお世話になった。

特に寮で同輩の一番気が合う友人にはプライベートでもかなり世話になった。迷惑もかなり掛けたが、嫌な顔せず手伝ってくれた。

元を正せば、その寮に無理やり入れたのは母なのだから、まさしく慧眼である。入っていなければ、出会えなかったのだから。

リハビリにも飽きてきて次の段階に行きたいと思えるようになった時に、そんな彼と何かインパクトある行動を起こしたいと思い、NPO設立に至るのだが、それは次回にしたいと思う。

ポップミュージックと二つの切り口 (1) ー ポップスの「居住性」

饒舌な男が好きな女を前にすると急に無口になる。
職場で目立たぬ一会社員がアフターファイブははっちゃける。

人にはそれぞれ自分が出しゃばることが出来る場所があるような気がする。
そういう意味では「書く」というフィールドにおいて唯一僕が出しゃばることが出来るジャンルは自然と音楽に限られる。

音楽で何を書こうか。そんなことを思いながら、朝の支度をする。

朝は元々苦手だ。一発でスッと起きられたためしがない。
その上、低血圧ときている。
高校生の時なんか、目覚めてすぐ立つもんだからフラフラして実家の階段から落ちたもんだ。今も階段の踊り場には拳ほどの穴が開いている。直してくれればいいのに、見せしめだろうか、ずっと開いたままだ。
そんなことはどうでもいい。実家に帰ったときに深く反省すれば良い。
ーーーーー雨だ。

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気圧を敏感に感じるうえ、天気が何となくその日の心象風景そのものになってしまう僕としては、雨は本当に滅入ってしまう。戦う前から負けフラグだ。
それでもいかねばならない。
そうして、うんざりしながら付けたウォークマンから流れた一曲に心が軽くなった。
今日一日ずっとエンドレスリピートしていた。


音楽、特にポップスと呼ばれる向きの音楽において僕が評価軸として大事にしているのは「居住性」「再現性」だ。
「おい、若造の癖に生意気を。『再現性』は百歩譲っていいとして、『居住性』とは何だ。お前は急に良いミニバンについてでも語る気か」ーーーーーなどと耳の肥えた読者諸兄からお叱りを受けそうであるが、間違えなく居住性だ。居心地の良さ。

よく「アーバンな音楽」(もしかするとアーバン、という言葉自体死語のカテゴリーに片足を突っ込んでいるやも知れないが)という触れ込みのライナーノーツを見かける。
僕が初めて見たのは中学生の時。EPOの「土曜の夜はパラダイス」あたりを聴いていて何かで「アーバン」と見かけた。いや、確かにアーバンなんだけれども。


EPO  土曜の夜はパラダイス

音楽ヲタクだけでなく鉄道ヲタクな北山少年は、当時「アーバン」の含まれる語彙はせいぜい住んでいた関西の広域都市圏を意味するJR西日本アーバンネットワークくらいしか知らず、「へえ、こういう使い方もあるのか」といたく感心したものだ。

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(現在のJR西日本京阪神エリア図。今Wikipediaを見ると「アーバンネットワーク」という呼称は2006年当たりを境に無くなったようだ)

その頃は感心する程度だったが今改めて考えると、「アーバン」はその当時の都会の空気感(それに少しの希望的憧憬も加えて)を上手く纏って作品の世界に無理なく没入させてくれる余地を持つ作品なのだろうなと感じたりもする。

今朝僕を憂鬱な気持ちから救ってくれた一曲もそうだ。
南波志帆が歌う、「コバルトブルー」という曲。イントロから分厚い昔のアルバムを開くような印象的なピアノが曲の世界に誘ってくれる。南波志帆のヴォーカルも非常に居心地がよい。

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南波志帆、自身のレーベルから最高傑作『meets sparkjoy』を4月6日に発売 - TOWER RECORDS ONLINE

(写真TOWER RECORDS ONLINEサイトより引用)

作詞・作曲は現役大学生にして新進気鋭のシティポップスの旗手、ブルー・ペパーズ。
自分たちの名前と提供曲の色彩が一致するのは偶然なのだろうか。
新アルバム「meets sparkjoy」、それからブルー・ペパーズについてもまた後日のエントリーで掘り下げていきたい次第である。

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「良質のポップスとは何か?」ーーーこの問いはそう簡単に解決しそうにないが、「居住性」というヒントを与えてくれたこの佳作に感謝しながら、初めてのエントリーはこれくらいにしておこうと思う。
次回はもうひとつのキーワード、再現性について。
お楽しみに。

 

ビタミンEPO

ビタミンEPO

 

 

meets sparkjoy

meets sparkjoy

 

 

 

ブルー・ペパーズ EP

ブルー・ペパーズ EP

 

 

はじめてみる。

4月になると何かを始めたくなるのは何故なんだろうか。
出会いもないぶん別れもないような春を全く感じられない環境にいるからなのは、自分でも何となく察しがつく。

折角始めたのだから、これからただつらつらと日常を書いていこうと思う。
音楽が主になるかもしれない。
更新のプレッシャーは感じたくないので、書きたい時に書く感じで。